山背国 乙訓郡

乙訓郡

山城国西岡【千年の都に最も近い場所】

山城国西岡について 【表記】 山城国西岡 【別表記】 西ノ岡・西の岡 【読み】 やましろのくににしのおか 山城国西岡とは 中世以降、京都盆地の桂川より以西の山城国内の地域のことを指す。 京の内裏等から見て、西に位置する長岡(向日丘陵)周辺地...
乙訓郡

山背国乙訓郡【知る人ぞ知る日本史の宝庫!】

山背国乙訓郡について 【表記】 山背国乙訓郡 【読み】 やましろのくにおとくにぐん 山背国乙訓郡とは 山背国(後の山城国)に置かれた郡のこと。 (山背国乙訓郡) 京都盆地の西端に位置する極めて狭隘な土地である。 狭隘な土地にも関わらず人民が...
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山背国【古代京都の実像とは!】

山背国について 【表記】 山背国 【読み】 やましろのくに 【別表記】 山代国 山背国とは この項では、山城国と改名されるまでについて解説する。 「山代国」と言う表記の方が古い。 (山背国) 「ヤマシロ」とは、ヤマト王権の位置する大和盆地か...
長岡京 概要

乙訓地名説話【悲劇の舞台!呪われし土地か?】

乙訓地名説話について 『古事記』が伝える乙訓地名説話 『古事記』に地名説話が残されている。 垂仁天皇は、旦波比古多々須美智宇斯王(『日本書紀』では丹波道主王)の娘四人を室に迎える。 その四人は、比婆須比売命、弟比売命、歌凝比売命、そして、円...