山城国西岡【千年の都に最も近い場所】

山城国西岡について

【表記】 山城国西岡
【別表記】 西ノ岡・西の岡
【読み】 やましろのくににしのおか

山城国西岡とは

中世以降、京都盆地の桂川より以西の山城国内の地域のことを指す。

京の内裏等から見て、西に位置する長岡(向日丘陵)周辺地域であることから「西岡」と名付けられた。

山城国西岡の由来
(山城国西岡の由来)

京の東に位置する山々を「東山」と呼ぶ。一方、京の西に位置する山々は「西山」と呼ばれる。その「西山」から伸びる長岡(向日丘陵)に因み「西岡」とされたのである。

「西山」を「西岡」と呼んだとするのは、「西山」を「長岡」と呼んだとする根も葉も無いデマと同じ類と言える。

「西岡」と「西山」は全くの別物である。

いつ頃から「西岡」と呼ばれるようになったのかは定かでは無い。

ただ、南北朝時代、乙訓郡鞆岡郷開田の地侍・開田林太郎兵衛尉実広(真弘)が出した書状の中で「西岡」を地名として記述している。

このことから遅くとも鎌倉時代末期までには、地域を表す名称として「西岡」が使われていたようである。

山城国西岡と乙訓郡との大きな違い

山城国西岡は、その大部分が乙訓郡と地域が重なる。

ただ、ひとつ大きく異なるところは、葛野郡の内で桂川(大堰川)から西の地域、つまり、桂川(大堰川)を以って、かつての平安京域の一部を含有する葛野郡と分断された葛野郡西部が、乙訓郡に加えられ西岡を構成していることである。

山城国西岡
(山城国西岡)

元々、葛野郡の内で桂川(大堰川)から西の地域は、桂川(大堰川)水系から用水(今井用水・寺戸用水)を配し農業を主体としている地域である。

その桂川水系からの取水口の関係上、乙訓郡北東地域と葛野郡の内で桂川(大堰川)から西の地域は水利関係を一にしている。

西岡の内で、この乙訓郡北東地域(上久世・下久世・大藪・築山・寺戸)と葛野郡の内で桂川(大堰川)から西の地域(徳大寺・上桂・下桂・革嶋・下津林・牛ヶ瀬)とを合わせて「西岡十一箇郷(西岡十一ヶ郷)」とも呼ばれる。

この西岡十一箇郷(西岡十一ヶ郷)は水利を巡る限定的な狭義の「西岡」と言える。

歴史的な地理での「西岡」を示す範囲は、乙訓郡全域と桂川(大堰川)以西の葛野郡を指す。

そして、西岡十一箇郷(西岡十一ヶ郷)は、生活と直結する水利を巡る繋がり故に、乙訓郡の農民と葛野郡の農民との間でしばしば武力を伴った紛争が生じたり、幕府等での裁判沙汰となっている。

なお、現在でも水の結び付きは深く、「いろは呑龍トンネル」と言う治水用の地下排水路がかつての西岡を走っている。

狭隘ながらも肥沃な土地である「西岡」は、その生産力を背景に西岡十一箇郷(西岡十一ヶ郷)に代表されるように自治的な人民組織を作り出すようになり、そこに、有力な国人・土豪・地侍のような存在が台頭して行くこととなるのである。