山背国【古代京都の実像とは!】

山背国について

【表記】 山背国
【読み】 やましろのくに
【別表記】 山代国

山背国とは

この項では、山城国と改名されるまでについて解説する。

「山代国」と言う表記の方が古い。

山背国(山城国)
(山背国)

「ヤマシロ」とは、ヤマト王権の位置する大和盆地から見てナラヤマ(平城山)の後ろに位置するところからナラヤマ(平城山)の「ヤマ」と後ろの「シロ」を採った命名であるとされる。即ち、「ヤマノウシロ」であり、所謂、穢名と言える。

『大宝令』が施行されて以降、山背国と言う表記となる。

「山背(ヤマシロ)」への変更は、天皇が座す都(藤原京・平城京)から見て平城山の背後に位置するところから平城山の「山」と背後の「背」を採った変更と見られる。

山背国では、さらにダメ押しのように、乙訓郡・相楽郡・綴喜郡の地名の由来が死に関係する地名と言う穢名の扱いを受けている。

これらは、この時期に『日本書紀』『古事記』の編纂が実施されていたことと深く関係あるように思われる。

穢名を付与される要因として考えられるのは、ヤマト王権が支配する大和国に比べて、山背国は、秦氏や高麗氏(狛氏)に代表される渡来移民(渡来人)が多く居住していた。

そのため山背国は、大陸や朝鮮半島からの優れた技術や文化をいち早く導入し、大和国に比肩するぐらいに農業や土木等の技術面、さらに仏教に代表される文化面で大きく発展しており、これをしてヤマト王権にとっては脅威と見做されたことが理由ではないかと考えられる。

また、国としての格式も、畿内においては、大和国・河内国・摂津国に次ぐ4番目の格式でしかなかった。

山背国の評(郡)

山背国に置かれた評(郡)については、その設置時期等、不明な点が多い。

ヤマト王権から見て、近い順で言えば、相楽郡・綴喜郡・久世郡・宇治郡・紀伊郡・乙訓郡・愛宕郡・葛野郡となる。

山背国(山城国)の郡
(山背国の郡)

山背国は、相楽郡・綴喜郡・久世郡・宇治郡・紀伊郡・乙訓郡・愛宕郡・葛野郡の8郡で72郷(『倭名類聚抄』高山寺本)の国力であった。なお、8郡78郷(『倭名類聚抄』古活字本)とする説もある。

しかし、これらの評(郡)がいつ正式に成立したのかについては詳細が判らない。

旧石器時代の山背国

旧石器時代は、山背国北部(乙訓郡・愛宕郡・葛野郡)に遺跡が集中している。

愛宕郡の上賀茂本山遺跡・岩倉幡枝遺跡・霊山遺跡、葛野郡の菖蒲谷池遺跡・沢ノ池遺跡、そして、乙訓郡の中海道遺跡・北山遺跡・殿長遺跡・今里遺跡・大山崎遺跡・南春日町遺跡・大枝遺跡・中久世遺跡等である。

これらの遺跡の大きな特徴として、多くが京都盆地周縁の丘陵や山等の標高が比較的高いところに営まれていることが挙げられる。

この時期、山背国南部(相楽郡・綴喜郡・久世郡)に目立った遺跡は発見されていない。

縄文時代の山背国

旧石器時代の流れを引き継ぐかのように、山背国北部(乙訓郡・愛宕郡・葛野郡)に遺跡が目立つ。

乙訓郡の下海印寺遺跡から縄文時代早期の土器が出土している。

山背国北部の泥湿地帯から縄文時代末期の遺跡が発見されており、縄文時代末期には、人民の生活圏がそれまでの京都盆地周縁部から平地の泥湿地帯へと拡大し始めていたことが判る。

この時代も遺跡の規模や数等から判断して山背国北部が山背国南部(相楽郡・綴喜郡・久世郡)よりも優位な時代であったと見られる。

弥生時代の山背国

山背国における弥生時代の最古の遺跡は、乙訓郡の雲ノ宮遺跡と鶏冠井遺跡である。

弥生時代中期の遺跡である乙訓郡の森本遺跡からは祭祀に用いられたと見られる「弥生のビーナス」と呼ばれる人面土器が出土している。

紀伊郡の深草遺跡からは、木製農具が出土し、山背国で水田を耕し稲作が行われていたことが確認されている。

稲作
(稲作)

葛野郡の梅ヶ畑遺跡からは銅鐸が出土しており、乙訓郡の鶏冠井遺跡では銅鐸を鋳造していた痕跡が発見されている。

銅鐸
(銅鐸)

木製農具・人面土器・銅鐸等の出土品から判るように弥生時代の山背国は、倭(日本)列島各地の同時代の様相と等しく、稲作農業が行われ、祭祀も行われていた。

このような安定的な食糧生産とそれに伴う定住化に加えて共通の価値観を持つ祭祀の実施と言う人民の営みは、王(首長)を頂点とする階級社会を地域で構成することになる。

古墳時代の山背国

階級社会が生んだ地域王権の象徴として古墳時代初期に古墳が築造されたのは、山背国北部の乙訓郡である。

しかし、ヤマト王権の支配力が広域化するに従い、大和国と地理的に近い山背国南部の重要性が増して行くことになる。

その証拠とも言える相楽郡に築造された椿井大塚山古墳は、この時代に山背国に築造された古墳の白眉とも言える存在である。

椿井大塚山古墳
(椿井大塚山古墳)

この椿井大塚山古墳は副葬品として「三角縁神獣鏡」を32面有する山背国屈指の古墳なのである。

椿井大塚山古墳が築かれた山城国南部には、木津川・久津川・宇治川等に沿うように古墳群が築造されており、この時代の一大勢力であったことを窺わせる。

彼ら山背国南部の勢力は、ヤマト王権と結ぶことで、山背国南部を山背国内における政治の中心とする。

また、古墳時代に入ると山背国で活動していた人物像が見えて来るようになる。

この時代の山背国の人物として、山代国造(山代直)・粟隈県主・鴨県主・葛野県主たちが挙げられる。

やがて、古墳時代末期になると、男系大王(天皇)が断絶したヤマト王権に越国から入婿の形でやって来たオオド大王(継体天皇)が山背国南部に筒城宮(綴喜郡)を築く。

これが山背国が倭(日本)の中心となった最初である。ただし、実態は、王権を支える有力豪族が揃う大和国が中心であった。

オオド大王(継体天皇)は続けて、宮を山背国北部の弟国宮(乙訓郡)へ遷す。

そして、古墳時代までに山背国の各地には、大陸や朝鮮半島からの渡来移民(渡来人)が多く移り住み定住して行った。

飛鳥時代の山背国

山背国北部の広域を支配する秦氏本宗家と、ヤマト王権の実権を掌握する蘇我氏本宗家との繋がりが顕著となる。

秦氏本宗家は、はっきりとした時期は未詳ながら、少なくとも古墳時代中期から、その勢力を葛野郡を中心に愛宕郡・紀伊郡、そして、乙訓郡へと拡大させたことで知られる。

これら山背国北部は、秦氏本宗家の有する土木技術や殖産興業で、畿内において経済的にも文化的にも一気に先進地帯へと発展して行く。

具体的には、葛野郡の蜂岡寺・広隆寺、乙訓郡の乙訓寺等、各地に仏教寺院が建立されて行く。

また、山背国南部にも狛氏(高麗氏)の高麗寺等が建立されている。

奈良時代の山背国

奈良時代、平城京の北郊に位置する相楽郡が着目される。

まず、元明天皇が相楽郡に甕原離宮を造成する。

藤原広嗣が大義を掲げて九州の大宰府で決起する等、政治に混乱が生じると、聖武天皇は平城京を棄て相楽郡に遷都し恭仁京(恭仁宮)を建設する。

恭仁宮跡
(恭仁宮跡)

この恭仁京で、聖武天皇は、全国での国分寺建立や墾田永世私財法、さらに、大仏建立等、重要な政策決定を行っている。

また、山背国府も相楽郡に置かれる等、平城京に近い山背国南部の相楽郡が山背国の窓口であり中心であったと見られる。

そして、山城国南部は、奈良時代の有力貴族である橘氏との繋がりも深いものがあった。

一方、山背国北部の各郡は、律令体制に組み込まれながら中級・下級官人を輩出する等していた。

なお、奈良時代に山背国内での乳牛の飼育が始められている。

長岡京時代の山背国

桓武天皇が乙訓郡に遷都し長岡京を建設する。

ここに、朝廷政治と大和国は分離され、山背国において完全なる朝廷政治が実施されることとなる。

相次ぐ異常気象に拠り地形上の欠陥を抱える長岡京の経営維持が困難と悟った桓武天皇は、長岡京を棄て、新たに、葛野郡・愛宕郡へと遷都する。

山背国は、平安京遷都に伴い国名に使用される文字を嘉字へと改められることとなり、桓武天皇に拠って山城国とされた。

『此國。山河襟帯。自然城作。因斯形勢。可制新號。宜改山背國。爲山城國』

(『日本逸史』国立国会図書館デジタルコレクション)

大和国が第一とされた時代の山背国(山代国)としての歴史は正式に終わり、その歴史は日本の中心地としての山城国へと繋がれる。

山背国の年表

年表
  • 継体天皇5(511)年
    10月
    継体天皇、相楽郡の筒城宮に遷る。
  • 継体天皇12(518)年
    3月9日
    継体天皇、乙訓郡の弟国宮に遷る。
  • 和銅6(713)年
    6月23日
    元明天皇、甕原離宮に行幸。
  • 天平12(740)年
    12月15日
    聖武天皇、相楽郡の恭仁京に遷る。
  • 天平16(744)年
    2月26日
    聖武天皇、恭仁京を棄都。
  • 延暦3(784)年
    11月11日
    桓武天皇、乙訓郡の長岡京に遷る。
  • 延暦13(794)年
    10月22日
    桓武天皇、葛野郡・愛宕郡の平安京に遷る。
  • 11月8日
    「山背国」から「山城国」と改められる。