目次
荒内について
荒内とは
【表記】 | 荒内 |
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【読み】 | あらうち |
長岡宮大極殿跡から北方に数分のところに「荒内」と言う地名が残る。
(長岡宮大極殿跡と荒内の位置関係)
地形としては、西側(上記航空写真の左側)が高く、東側(同、右側)が低くなっており傾斜した地形である。
また、南北の地形を見ても、南側の大極殿跡が高く、北側に位置する荒内が低くなって傾斜している。
『帝都』が読み解く「荒内」
日本の宮都研究の先駆けとなった『帝都』の著者である喜田貞吉博士は、この「荒内」と言う地名と長岡宮大極殿跡との位置関係から、以下のように推察している。
『大極殿と言って居る所で、其の北に接して小字を荒内と稱する。荒内は大津京に於いて見るところの蟻の内と同じく、荒廢したる内裏の稱を傳へたものに相違ない』
(『帝都』 喜田貞吉 著 日本学術普及会)
即ち、「荒内」とは「荒れ果てた内裏」のことと推測したのである。
この喜田貞吉博士の推論から「荒内」は、延暦3(784)年に長岡京へ遷都した際、桓武天皇の住まいとして造営された第一次内裏(「西宮」)の置かれた場所の有力候補地のひとつと考えられて来た。
天智天皇と桓武天皇
とても興味深いことに、天智天皇が造営した宮と桓武天皇が造営した宮は、人々に長く伝承されて来たのである。
- 大津宮内裏跡
- 伝承「蟻の内」
- 長岡宮内裏跡
- 伝承「荒内」
天智天皇皇統を強く自負し意識して来た桓武天皇にとっては、喜ばしいことであろう。
また不思議なことには、天智天皇から皇統を簒奪した天武天皇皇統系の宮(飛鳥浄御原宮から平城宮に至るまで)には「内裏」跡について人々の伝承は残されていない。
荒内の遺跡
この荒内からは、四脚門の礎石跡や長殿の柱跡と思われるものの一部が発見されている。
(礎石跡や柱跡からの推定)
これらの礎石跡や柱跡の発見場所は第一次内裏の建造物群が推定される個所より東に外れた場所になる。藤原宮や平城宮の内裏が、大極殿院の真北に建設されたことを考えると、これらの遺跡が第一次内裏に関連するものなのか疑問の残るところとなる。
ただし、それを平安宮に置き換えると、平安宮の大極殿院と内裏の位置関係に近くなる。
もうひとつの第一次内裏候補地の発見
近年、この荒内から西方へ数百メートルの場所から、複廊跡が発見された。
この複廊は、内裏の中でも重要な建造物の周囲に建築されるものであることや、第二次内裏「東宮」から見て大極殿院を挟み西に位置しており、シンメトリー(実際にはやや北方にずれる)に「西宮」と理解しやすい等の点から、こちらを第一次内裏とする見方も有力となっている。
ただし、こちらは、豊富な地下水が湧き出ている地点が至近にあること等から曲水宴の行われた「嶋院」の可能性も高いと指摘されている。
延暦4(785)年には、第一次内裏(西宮)と嶋院で、それぞれ宴が行われたことが記録されている。このことは、長岡京への遷都初期段階の時点で、既に第一次内裏(西宮)と嶋院が建設されており機能していたことを意味するのである。
荒内のまとめ
(荒内児童公園)
長岡宮第一次内裏(「西宮」)の有力候補地として考えられて来たのが「荒内」である。
実際、大極殿の北側に内裏が建設されて来た藤原宮や平城宮における大極殿と内裏との位置関係を鑑みた場合、非常に有力な場所と見られる(ただし、大極殿院の真北から東側にずれる)。
しかしながら、住宅地となった今では、発掘調査が可能性な場所も限定されているのが現状である。
荒内の本格的な発掘調査が進められていないこと等もあり、内裏に該当するような建造物群の遺構は、未だに確認されていない。
また、大極殿院の北側には「北方官衙群」の存在が確認されている。出土した四脚門の礎石跡や長殿の柱跡は、これらの「北方官衙群」を構成する可能性も考えられる。
荒内への行き方
現地には駐車場等は無いため公共交通機関の利用がおすすめ。
公共交通機関
鉄道
阪急京都線「西向日駅」西口から徒歩5分。
JR利用の場合は阪急京都線へ乗り換えるか、JR京都線「向日町」から下記のコミュニティバスの利用。
バス
向日市営コミュニティバスぐるっとむこう 南ルート「大極殿前」バス停から徒歩1分。