長岡京と大友皇子(弘文天皇)について
長岡京と大友皇子(弘文天皇)とは
長岡京は、桓武天皇の強い意志に拠って「天智天皇皇統」の皇都として造営された宮城である。
《皇統略図》 舒明天皇 ┃ ┣━━━━━━━━━━┓ 天智天皇 天武天皇 ┣━━━━┓ ┃ 大友皇子 施基親王 草壁皇子 ┃ ┃ 光仁天皇 文武天皇 ┃ ┃ 桓武天皇 聖武天皇 ┃ 孝謙天皇
天智天皇の皇統で見れば、大津宮において、父帝・天智天皇の下で太政大臣を務めた大友皇子が、天智天皇の後継者と言える。
しかし、その大友皇子は、叔父・大海人皇子(天武天皇)が引き起こした軍事クーデター『壬申の乱』に拠って敗北し自害に追い込まれている。
大友皇子が践祚し皇位に就いていたと認められ、正式に天皇として「弘文天皇」の諡号を与えられたのは明治時代になってからである。
この大友皇子の御陵(弘文天皇陵)は、大友皇子の父帝・天智天皇の天智天皇陵と同じく長岡京の鬼門である「艮(うしとら)」の方角を守護する位置に存在しているのである。
そして、大友皇子は、その最期の地が「山前(やまさき)」と言う記録が残されている。
『大友皇子、走げて入らむ所無し。乃ち還りて山前に隠れて、自ら縊れぬ』
(『日本古典文學大系68 日本書紀 下』 坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
この「山前」については諸説ある。
近江国滋賀長等山の「やまさき」とする説等が有力であるが、山背国での有力な説として山背国乙訓郡山前(山碕)の「やまさき」とする説がある。
こうして、大友皇子の最期の地の候補地のひとつとされる山背国乙訓郡山前(山碕)であるが、実は長岡京の裏鬼門に当たっている。
(長岡京の鬼門を封じる弘文天皇陵と裏鬼門を封じる山前)
さらに、鳥居前古墳を大友皇子の墓所とする伝承がある。
この鳥居前古墳は5世紀に築造されたと考えられる古墳であり、7世紀後半に存在した大友皇子とは時間のズレがある。だが、大友皇子は、大海人皇子軍に頸を取られると言う酷い仕打ちを受けており、残された胴体を既存の鳥居前古墳へ埋葬した可能性が考えられる。
『壬申の乱』の頃、乙訓郡には、土師氏や朝鮮半島からの移民の雄である秦氏の分家が住まっており、彼らが大友皇子の亡骸を大海人皇子(天武天皇)側の目を盗み埋葬した上で追悼したものと思われる。
ちなみに、大海人皇子(天武天皇)が大友皇子の亡骸を丁重に葬ったとする記録は一切残されていない。
長岡京と大友皇子(弘文天皇)のまとめ
長岡京は、天智天皇に守護されている宮都である。
そして、天智天皇の皇子である大友皇子(弘文天皇)が守護する宮都でもあった。
とりわけ、大友皇子の存在は、大海人皇子(天武天皇)に皇位を軍事クーデターに拠って簒奪されたと言うこともあり、天武天皇皇統を邪悪な対象として歴史から抹殺しようとした場合、その象徴としては類を見ない存在と言える。
即ち、大友皇子の天武天皇皇統に対する「怨念」が天智天皇皇統の桓武天皇を守護するのである。
桓武天皇は、天智天皇と並んで、天智天皇の皇子である大友皇子を鬼門に配することで、天武天皇皇統の封殺を長岡京の存在をして宣言したのではなかろうか。
長岡京と大友皇子(弘文天皇)の年表
- 天智天皇称制6(667)年3月19日近江国大津宮に遷都。
- 天智天皇10(671)年12月3日大友皇子、践祚。
- 天武天皇元(672)年6月『壬申の乱』勃発。
- 天武天皇元(672)年7月23日大友皇子、「山前」で自害。
- 天応元(781)年4月3日山部皇太子、即位(桓武天皇)。
- 延暦3(784)年11月11日山背国長岡京に遷都。