長岡京と天智天皇について
長岡京と天智天皇とは
長岡京は、桓武天皇の強い意志に拠って「天智天皇皇統」の皇都として造営された宮城である。
《皇統略図》 舒明天皇 ┃ ┣━━━━━┓ 天智天皇 天武天皇 ┃ ┃ 施基親王 草壁皇子 ┃ ┃ 光仁天皇 文武天皇 ┃ ┃ 桓武天皇 聖武天皇 ┃ 孝謙天皇
長岡京遷都は、天武天皇に簒奪され歪められた皇統を正統に戻すことを内外に宣言する意味合いも込められていた可能性は高い。
そこで、その長岡京と天智天皇に関係する遺跡との位置関係を見ると興味深いことが見えて来る。
天智天皇陵は、長岡京の鬼門である「艮(うしとら)」の方角を守護する位置に存在しているのである。
さらに、この天智天皇陵の艮の方角には、天智天皇が造営した大津宮が存在している。
(長岡京の鬼門を封じる天智天皇陵と大津宮)
長岡京の宮域(長岡宮)は歴代の宮都の宮の中で、地形的に見て、かなり無理のある地形に造営されているのが特徴である。
ただそれも長岡宮の位置が天智天皇陵と大津宮、とりわけ天智天皇陵を意識されて造営されたものとした場合には、桓武天皇にとっての宮は、この長岡宮の場所しか無かったと解釈出来得るのである。
もちろん山背国乙訓郡長岡が桓武天皇の新しい宮に選ばれた理由はこれだけでは無く、もっと多様で複合的な要素が絡んでいる。
しかし、「天智天皇」の存在を考えた場合、長岡京遷都には、桓武天皇にとって忌まわしい平城京を離れると言うことに加え、天智天皇皇統の復興と共に桓武天皇自らが正統かつ新たな王朝を開くと言う目的が見えて来る。
その桓武天皇と長岡京を、この世のあらゆる魔物から守護する役割を期待されたのが天智天皇陵と大津宮に代表される天智天皇だったのである。
長岡京と天智天皇のまとめ
「魔除け」の仕掛けを持つ都と言うと、真っ先に平安京が連想されがちであるが、平安京に先立つこと、長岡京の造営段階で、既に存在していたと言っても過言ではないだろう。
長岡京の艮の守護には、久我神社の存在や鬼門封じを目的として長岡京外に建立された寺院の存在がよく知られている。実は、それらの延長線上には天智天皇陵と大津宮が位置しており、長岡京の鬼門を封じていたのである。
この位置関係は偶然の産物とも取れる。
しかし、自らが天智天皇の血を引くことを強く意識していた桓武天皇である。その桓武天皇が、天智天皇皇統の皇都「長岡京」の造営に当たり、天智天皇陵と大津宮の存在を大いに意識したのは当然のことではなかろうか。
それほどに桓武天皇にとって天智天皇は理想と憧れだったと言える。
長岡京と天智天皇の年表
- 天智天皇称制6(667)年3月19日近江国大津宮に遷都。
- 天智天皇称制7(668)年正月3日中大兄皇子、即位(天智天皇)。
- 天智天皇10(671)年12月3日天智天皇、崩御。
- 天応元(781)年4月3日山部皇太子、即位(桓武天皇)。
- 延暦3(784)年11月11日山背国長岡京に遷都。