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長岡京と長岡(向日丘陵)について
長岡京と長岡(向日丘陵)とは
(向日丘陵の衛星写真)
延暦3(784)年、桓武天皇が、新皇都を山背国乙訓郡長岡村に造営したことから、新皇都は「長岡京」と呼ばれた。
長岡村の「長岡」とは、向日丘陵のことで、かつて向日丘陵が「長岡」と呼ばれていたことから名付けられたものである。
向日丘陵は、北は嵐山の大堰川(桂川)西岸から伸び始め、終末端となる南西方面は向日神社の辺りまで伸びている丘陵であり、その地形が京都盆地西側に横たわる「長い岡」であったことから、「長岡」と名付けられた。
上の航空写真の赤い部分が向日丘陵。赤い部分の最南端部(下部の細い箇所)に長岡宮第一次内裏「西宮」が造営された。
長岡(向日丘陵)の地質
長岡(向日丘陵)は、大阪層群で構成されている。
長岡京全体の地質を大雑把に言うと、右京域は段丘層、左京域は沖積層で出来ている。
長岡(向日丘陵)の歴史
弥生時代
弥生時代には、長岡(向日丘陵)の南端に集落が築かれた。現在で言う「北山遺跡」である。
この「北山遺跡」は高台に位置する立地を生かして京都盆地に点在する同時期に出来た集落と連絡を取り合うために構築された情報ネットワークの一員であったことが有力視されている。
古墳時代
長岡(向日丘陵)には、乙訓地方の首長たちの奥津城としての古墳が次々と築造されて行く。
その主な古墳は、元稲荷古墳(京都最古の前方後方墳)、北山古墳(現存せず)、五塚原古墳(箸墓古墳と類似する)、妙見山古墳(現存せず)、寺戸大塚古墳、伝高畑陵古墳(京都で最大級の円墳)等である。群集墳については多数存在している。
中でも近年の白眉は、五塚原古墳であって、研究者に拠っては「箸墓古墳の原型で最古の前方後円墳」と評される古墳である。
長岡(向日丘陵)は西岡に
室町時代以降の長岡(向日丘陵)
(向日丘陵)
室町時代以降は、京から見て「西に位置する岡」であることから「西岡」と呼ばれた。
「西岡」と書いて「にしのおか」と読む。
西岡は、本来の山城国乙訓郡に、桂川から西の葛野郡を合わせた地域一帯を指すようになる。
戦国時代になると、その狭隘な面積に多くがひしめきあい領主としての領地は小さいものでありながら、一癖も二癖もある国人衆たちが跋扈したことで有名な土地となる。
長岡京と長岡(向日丘陵)に関する注意
最近、長岡京に関連する「長岡」のことを、西山のこととする誤った珍説、所謂デマを唱える人もいるが、長岡とは向日丘陵のことである。