長岡京の人口【世界十大都市の一員!僅か10年間の皇都に住まいし人々の実態とは?】

長岡京の人口について

長岡京の人口は、現在まで発掘調査された分だけの推測では約5万人以上であったと考えられている。

長岡京遷都によって棄都された平城京の人口が、約20万人であったと推測されていることから、今後、長岡京の調査が進むにつれて、平城京と同等か、やや少ない人口であったことが明らかになると思われる。

人口で平城京を上回るかどうかであるが、長岡京は寺院勢力に関わる人口(僧をはじめとして、寺が所有する奴婢に至るまで)の移動が考えられないために、人口数で平城京を上回ることは無かったのではないかと想像される。

8世紀の世界の都市人口

8世紀の人口三大都市は次の三都市である。

【都市名】 【人口数】
長安(唐) 約100万人
バグダッド 約80万人
洛陽(唐) 約60万人

長岡京の存在した8世紀末の段階で、世界最大の人口を数えた都市は、唐の長安であった。その人口は約100万人である。

次いでバグダッド(約80万人)、洛陽(約60万人)と続く。8世紀の世界三大都市の内、二つの都市が唐に存在していることから見ても、この時代の唐が比類なき大帝国であったことが窺える。

この三大都市に続くのが、コルドバ(約50万人)、コンスタチノーブル(約25万人)である。

これらの都市に続くのが、アレキサンドリア・慶州(新羅)・ナポリ、そして、長岡京であった。

少なくとも、長岡京は、8世紀の十大都市のひとつに数えられるほどの人口を抱えていた。

長岡京の少子化問題

長岡京における長幼の人口比率の詳細は不明である。

しかしながら、残された記録から奈良時代は、

『二十歳以下の人口は二十歳以上の人口に比して割合に寡少なると認め』

(『奈良朝時代民政経済の数的研究』沢田吾一 国立国会図書館デジタルコレクション)

られる状態であったとされる。

そして、長岡京時代に続く平安時代が、

『平安朝時代の戸籍残簡を看るに二十歳以下の者著しく少なし』

(『奈良朝時代民政経済の数的研究』沢田吾一 国立国会図書館デジタルコレクション)

と言った状態であったことから、長岡京時代も、奈良時代・平安時代と並び、やはり、二十歳以下の人口は少ない状態であったと想像される。

奈良時代・平安時代の若年層の人口が少ないのは、疫病の流行等が要因に考えられるところである。加えて、農業技術も未発達で慢性的な食糧不足のために人口爆発等は夢のまた夢の時代でもあった。

長岡京時代は、それら疫病や未熟な農業技術に加えて、相次ぐ天変地異に拠る災害のために被災死した若年層も多かったものと思われる。

当時の長岡京は大人が多く集まり成熟した都である反面、若者や子供が少ない活気に欠けた都であったと言えるのかも知れない。

21世紀の日本が直面している少子化問題は、実のところ、8世紀の長岡京も直面していた問題だったのである。

長岡京の人口のまとめ

当時の長岡京が、人口面で、世界十大都市の一員であったことは特筆される。

長岡京が首都であった期間は僅か10年しかなかったものの、その規模は世界クラスを誇っていた。

長岡京が世界十大都市の一員であったことは、当然、平城京も世界十大都市の一員であったことになる。

これを言い換えれば、世界十大都市の一員となる20万人規模の大都市を遷し新たに造ろうと考えたのが桓武天皇であり、その桓武天皇の考えを実現させたのが藤原種継だったのである。

長岡京の人口の年表

年表
  • 延暦3(784)年
    6月10日
    藤原種継等、造長岡宮使に任命される。
  •  
    11月11日
    長岡京に遷都する。