乙訓地名説話【悲劇の舞台!呪われし土地か?】

乙訓地名説話について

『古事記』が伝える乙訓地名説話

『古事記』に地名説話が残されている。

垂仁天皇は、旦波比古多々須美智宇斯王(『日本書紀』では丹波道主王)の娘四人を室に迎える。

その四人は、比婆須比売命、弟比売命、歌凝比売命、そして、円野比売命であった。

『日本書紀』では、その時期を具体的に垂仁天皇15(紀元前15)年2月10日とし、室に迎えた娘の数は五人で、その名も、日葉酢媛、渟葉田瓊入媛、真砥野媛、薊瓊入媛、竹野媛としている。

垂仁天皇は、比婆須比売命、弟比売命の二人を妻として、残りの妹二人は器量が悪いことを理由にして丹波に返した。

『日本書紀』では、竹野媛だけが、不器量を理由にして追い返されたことになっている。

山背国乙訓郡から丹波国へ
(山背国乙訓郡から丹波国へ)

円野比売は、この恥辱に耐えかねて、死を決心し、大和国から山背国に入ってから頚をくくろうとするが失敗。

円野比売が頚をくくり木に下がった土地は、

『山代國に相樂に到りし時、樹の枝に取り懸りて死なむとしき。故、其地を號けて懸木と謂ひしを、今は相樂と云ふ』

(『日本古典文學大系1 古事記祝詞』 倉野憲司 校注 岩波書店)

と言う具合に「懸木(さがりき)」から「相楽(さがらか)」と呼ばれた。そして、弟国に辿り着いたところで、深い淵に落ちて、その短い生涯を終えるのである。

乙訓は落つ国

円野比売が淵に落ちて命を落とした土地であることから、

『又弟國に到りし時、遂に峻き淵に堕ちて死にき。故、其地を號けて堕國と謂ひしを、今は弟國と云ふなり』

(『日本古典文學大系1 古事記祝詞』 倉野憲司 校注 岩波書店)

「墜国(おつくに)」とし、その名から転じて「弟国(おとくに)」「乙訓」と呼ぶようになったとしている。

『古事記』が伝える「乙訓」の地名説話には、円野比売と言うひとりの女性の悲劇が込められていると言える。「堕国」・・・それは、円野比売が涙を落とした国であったのかも知れない。

円野比売イメージ

現在の乙訓地域には、地名説話の中で円野比売が命を落としたとされる淵に関する伝承は何ひとつ残されていない。

『日本書紀』が伝える乙訓地名説話

『日本書紀』では、竹野媛が丹波国へ戻る途中で輿から落ちて、絶命した土地を「墜国」とし、そのことをもって、「弟国」「乙訓」の地名の始まりとしている。

『則ち其の返しつかはさるることを羞ぢて、葛野にして、自ら輿より堕ちて死りす。故、其の地を號けて堕國と謂う。今弟國と謂ふは訛れるなり』

(『日本古典文學大系68 日本書紀 下』 坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)

これらの説話は、明らかに、「乙訓」の地名に対して、その地名の由来を穢名とするために、こじつけられたものである。

そして、この『日本書紀』の伝承は、葛野郡から乙訓郡が分かれて置かれたことを示唆するような内容になっていることも注目される。

『日本書紀』では、相楽に関する地名説話は記されていない。

「乙訓」穢名と実態

『古事記』も『日本書紀』も共に、「乙訓」は丹波の姫の死が絡む穢れた地名と伝えている。

これらの伝承から窺えることは、当時の山背国には、古くから、大和の勢力に匹敵するほどの朝鮮半島経由の文化と技術力を有しており、大和の勢力は、山背国を脅威に感じ怯えていたことの明確な裏付けでもある。

同時に山背国乙訓郡には、葬儀に関わる豪族(石作氏・土師氏)が居住していたことも、乙訓が死と関連付けられる理由とされているのかも知れない。

また興味深いのは、この地名説話に、丹波の姫が絡んでいることで、そこから古代の乙訓地域は丹波地域、さらに丹後地域とも、極めて密接な関係があったことを窺わせている。それは、乙訓郡が日本海と繋がる交通の要衝であったことも意味するのである。