目次
長岡京の観相について
長岡京の観相とは
延暦3(784)年5月16日、桓武天皇は、山背国乙訓郡長岡村が、新都造営に相応しい土地であるかどうかを調べるために、諸臣を派遣し乙訓郡の地形等を相させた。
『丙戌、勅して、中納言正三位藤原朝臣小黒麻呂・従三位藤原朝臣種継、左大弁従三位佐伯宿禰今毛人、参議近衛中将正四位上紀朝臣船守、参議神祇伯従四位上大中臣朝臣子老、右衛士督正四位上坂上忌寸刈田麻呂、衛門督従四位上佐伯宿禰久良麻呂、陰陽助外従五位下船連田口らを山背国に遣して、乙訓郡長岡村の地を相しめたまふ』
(『続日本紀 五』新日本古典文学大系 青木和夫 稲岡耕二 笹山晴生 白藤禮幸 校注)
この観相が行われた場所は、山背国乙訓郡長岡村を見渡せる場所と言うことになるため、その条件に合致する唯一の場所である長岡最南端(向日丘陵最南端)が観相の地と考えられる。
当時を伝える『続日本紀』の多くが失われたために文献上の確証を得ることは難しいが、まず観相に当たり「四神が守護する土地であるか否か」が論じられたのは間違いないと思われる。
長岡京の観相が実施された時期の秘密
長岡京の観相の行われたのは、旧暦の5月である。
旧暦の5月とは梅雨時である。このことに重要な意味が含まれていることが判る。
即ち、新皇都の候補地となった山背国乙訓郡が持つ地形上の最大の懸案であった桂川や小畑川の氾濫等の「水害」の可能性を、敢えて河川の水量が増加する梅雨時に合わせて、視察する目的もあったものと考えられる。
長岡京の観相の真の目的は
桓武天皇と腹心の藤原種継にとって、長岡京遷都は既定路線であった。
この観相の結果がどうであれ、山背国乙訓郡への完全な形での遷都は必ず実施される手はずとなっていた。
しかしながら、例え形式的なものであっても勅命に拠って「観相」を行うことで、平城京を棄都することに反対する大和国の仏教寺院等の抵抗勢力を納得させることも目的のひとつであったと考えられる。
観相は「長岡京遷都」への淡々と進む遷都計画のイベントのひとつだったのである。
長岡京を観相した諸臣について
乙訓郡長岡村を視察したのは、藤原種継・藤原小黒麻呂・佐伯今毛人・紀船守・大中臣子老・坂上刈田麻呂・佐伯久良麻呂・船田口の8名であった。
注目されるのは、その8名中4名までが渡来人(帰化人)に関係する人々と言う事実である。
ヤマト王権(大和朝廷)時代から大王(天皇)仕えて来た伴造系豪族からは佐伯氏のみが参加を許されているだけであって、伴造系豪族の二大雄族たる大伴氏・物部氏(石上氏)からは一人も選抜されていない。
このように長岡京の観相に関しては、桓武天皇政権が持つ開明的かつ革新的な性格を象徴する人事となっている。
藤原種継
藤原式家出身。
「朝臣」姓。
父は藤原清成。母は渡来人(帰化人)の雄・秦氏の分家(乙訓秦氏)出身の秦朝元の娘である。
《藤原種継系図》 藤原宇合━清成 │ ┝━━━種継 │ 秦朝元━━女子
延暦2(783)年に行われた人事によって、種継は、式部卿兼近江按察使兼左衛士督に任じられている。
桓武天皇の側近中の側近と言える人物で、長岡京遷都を推進した人物である。
もう、ひとつ種継について注目されるのは、左衛士督の任にあったことが挙げられる。
式部卿たる種継は「文官人事」を掌握していたが、同時に、左衛士督として限定的ではあるが宮城警備に関わる武官の人事も掌握していた。因みに、右衛士督は坂上苅田麻呂である。
山背国乙訓郡に関しては誰よりも情報と知識を有していた人物であり、桓武天皇政権での「山背閥」筆頭とされる。
藤原小黒麻呂
藤原北家出身。
「朝臣」姓。
父は藤原鳥養。小黒麻呂は渡来人(帰化人)の雄・秦氏の本家である太秦氏から妻を迎えている。
《藤原小黒麻呂系図》 藤原鳥養━━小黒麻呂 │ ┝━━━葛野麻呂 │ 太秦嶋麻呂━女子
延暦2(783)年に行われた人事によって、小黒麻呂は、左京大夫兼参議兼民部卿に任じられている。
桓武天皇政権では、藤原種継に次ぐ「山背閥」の主要人物である。
佐伯今毛人
佐伯氏。
「宿禰」姓。
佐伯今毛人は、観相が行われた当時の官職は左大弁であった。
今毛人の場合は、過去の経歴に注目すべき点がある。今毛人は、摂津大夫・造東大寺長官・造西大寺長官等を歴任した人物であり、土木建築事業に関してはエキスパートとも言える実績を持っていた。
つまり、この観相で今毛人に与えられた役割は、山背国乙訓郡長岡村に巨大建築物の建設が可能であるかどうかの見極めであったと推測される。
紀船守
紀氏。
「朝臣」姓。
紀船守は、この当時の官職は令外官の近衛中将であった。
桓武天皇の父方(光仁天皇)の祖母が紀氏の女性である。
《紀氏と桓武天皇関係系図》 天智天皇━施基親王 │ ┝━━━光仁天皇━桓武天皇 │ 紀大人━┳橡姫 ┗麻呂━━┳依麻呂━━広庭 ┣飯麻呂━━古佐美 ┗猿取━━━船守
桓武天皇にとって遠い血縁に当たる。従って、「公」と言うよりも、むしろ桓武天皇の「私」的な面での観相と言う立場にあったのかも知れない。
大中臣子老
大中臣氏。
「朝臣」姓。
大中臣子老は、この当時の官職は神祇伯兼右京大夫であった。
皇室(天皇家)に関わる神事を担当すると同時に、平城京の右京を管轄していた(左京を管轄していたのは藤原小黒麻呂である)。
山背国乙訓郡長岡村が皇室の祭祀を行うに当たって支障の無い土地であることと、平城京の右京と同等の右京が造成出来るかどうかを観相したものと思われる。
坂上苅田麻呂
坂上氏。
「宿禰」姓。
秦氏と並ぶ渡来系帰化人の雄・東漢氏の血を引く。
坂上苅田麻呂は、元丹波守でもあったことから、地政学的観点から山背国乙訓郡の戦略的価値を観相したものと思われる。
苅田麻呂は、右衛士督であった。
このことから苅田麻呂には、新宮(長岡宮)の建設に当たり、宮の警備についての観相を行ったと推測される。
また何より、苅田麻呂は有能な武官であったことから、桓武天皇の宿願である「蝦夷征伐」の大本営としての機能を観相した可能性も考えられる。即ち、陸路(東海・東山・北陸各道)・海路(日本海側)から展開して、東日本、とりわけ、東北地方での軍事作戦を行える大本営たる長岡京の建設である。
佐伯久良麻呂
佐伯氏。
「宿禰」姓。
佐伯久良麻呂も、坂上苅田麻呂と同じく、丹波守経験者であり、交通の要衝としての観点から、観相を行ったものと思われる。
また、久良麻呂は、この当時、衛門督の任に就いていた。
このことから、建設される新宮(長岡宮)に関して保安上の問題点や課題がないかについても観相したと見られる。
船田口
船氏。
「連」姓。
船田口は、この当時の官職は陰陽助であった。
陰陽道を司る立場で、風水上から、山背国乙訓郡長岡村を観相した。
長岡京の観相のまとめ
この観相の結果、山背国乙訓郡は、新しい皇都を造営するのに相応しい土地と判断された。
その判断は遥か以前に桓武天皇と藤原種継が出していたものでもあった。
今回、わざわざ「観相」と言う手続きを採ったのは、桓武天皇が信任する「諸臣」が現地に足を運び、その耳目をして実地検分した結果、山背国乙訓郡こそが新皇都の建設地として相応しいと言う結論を出すことに意味があったのである。
この結論は、桓武天皇に報告するためと言うよりも、遷都に反対する頑迷な奈良派の妨害や抵抗を粉砕し抑え込むためのものであった。
こうして、この観相が行われてから僅か1ヵ月後の6月10日には、藤原種継が造長岡宮使に任命されるのである。さらに、半年後の11月11日には長岡京遷都が行われている。
これらのことから考えると、この観相が実施された時点において、既に、難波宮の主要部分の解体が進み、長岡宮の建材として乙訓郡に搬入されていた可能性が高かったと思われる。
長岡京の観相の年表
- 延暦3(784)年5月16日山背国乙訓郡長岡村の観相を実施する。
- 6月10日藤原種継等、造長岡宮使に任命される。
- 11月11日長岡京に遷都する。
長岡京観相地への行き方
長岡京観相地の向日神社には若干数の駐車場があるものの宗教行事等の関係者優先のため公共交通機関の利用がおすすめ。
公共交通機関
鉄道
阪急京都線「西向日駅」西口から徒歩15~20分。
JR利用の場合は阪急京都線へ乗り換えるか、JR京都線「向日町」から下記のコミュニティバスの利用。
バス
阪急バス「向日市役所前」バス停から徒歩10~15分。
阪急バス「滝ノ町」バス停から徒歩3分。
向日市営コミュニティバスぐるっとむこう 南ルート「勝山中学校前」バス停から徒歩10~15分。