目次
北山古墳の概要
【時代】 | 3世紀後半 |
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【墳丘の形状】 | 前方後円墳 |
【全長】 | 不明 |
【前方部長さ】 | 不明 |
【前方部幅】 | 不明 |
【くびれ部幅】 | 不明 |
【後円部直系】 | 約11~13メートル |
【後円部高さ】 | 約5メートル |
北山古墳について
北山古墳は、向日丘陵古墳群の中では、五塚原古墳(前方後円墳)・元稲荷古墳(前方後方墳)に次ぐ古い古墳と見られる。
(北山古墳跡推定地)
明治時代前期に伝染病対策専用病棟建設のために破壊された古墳である。
北山古墳のあった土地の地主で、北山古墳の最期に立ち会った梶善吉氏からの聞き取り調査が実施されたことで、北山古墳の往時の姿がようやく微かに判る程度でしかない。
昭和時代の高度経済成長期に入ると、名神高速道路建設用の土砂採取のため向日丘陵南部が大きく削られるが、その際に北山古墳が存在していた痕跡等も完全に破壊され尽くされてしまっている。
元稲荷古墳から北に約100メートルほどの場所に存在していたと伝わるが、現在では、北山古墳が存在していた確かな場所跡さえ不明である。
北山古墳の墳形については、
『瓢形墳ナリ』
(『京都府史蹟勝地調査会報告 第二冊』国立国会図書館デジタルコレクション)
とあるので、前方後円墳と考えられる。
前方部を東に向けた古墳であった(上の写真で右向きとなる)。
ただし、同時に実施された踏査で、前方後方墳である元稲荷古墳についても「瓢形墳」の「前方後円墳」としているので、北山古墳が実は前方後方墳であったと言う可能性は残されている。
また、墳形を確認したのは学者等の専門家では無く、聞き取りに協力した梶氏の記憶であることからも前方後方墳の可能性を残す。
北山古墳の墳丘の全長について、約60メートルとする記述も散見するが、その根拠となる史料を探し出せなかったため「不明」とする。
北山古墳の埋葬施設
【所在】 | 後円部 |
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【棺】 | 不明 |
【施設】 | 竪穴式石槨 |
【全長】 | 約2メートル |
【高さ】 | 不明 |
【幅】 | 不明 |
【天井石】 | 不明 |
北山古墳の埋葬施設について
向日丘陵古墳群の初期に当たる時期の埋葬施設としては、全長約2メートルはあまりにも小規模である。
北山古墳の存在していた地域は竹藪となっており、恐らく竹の根の浸食等の圧迫で石槨が変形したのでは無いかと推測される。
また天井石に関しては、タケノコ農家の土入れ作業等で墳丘に手が加えられていたことが天井石の有無に関係しているとも考えられる。
竪穴式石槨の中心軸が南北であったのか東西であったのかは不明である。
なお、石槨の内部には厚さ約6センチメートルほどの朱の層があったと言う。
北山古墳の副葬品
【祭祀具】 | 三角縁四神四獣鏡1面 斎甕の破片 等 |
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【武具】 | 刀剣2振 刀剣や鋒先の破片13片 等 |
北山古墳の副葬品について
北山古墳から発見された三角縁四神四獣鏡には、
『新作明竟、幽律三剛、配徳君子、清而且明、銅出徐州、師出洛陽、周文刻鏤、皆作文章、所者大吉(欠)宜子(欠)孫』
(『京都府史蹟勝地調査会報告 第二冊』国立国会図書館デジタルコレクション)
の銘文が刻まれていたことが記録に残されている。
三角縁四神四獣鏡と言う貴重な品が副葬されている割りに、他の副葬品が少ないことから見て、恐らく盗掘に遭っているものと思われる。三角縁四神四獣鏡が残されていたのは奇跡であろう。
実は北山古墳の副葬品である三角縁四神四獣鏡の同笵鏡が岡山県の備前車塚古墳から出土している。
(備前車塚古墳)
備前車塚古墳が3世紀後半の早い時期に築造されたと推測される古墳であることから、その備前車塚古墳から副葬品として出土した銅鏡の同笵鏡を副葬品として納めていた北山古墳も同時期に築造された古墳であると見做すことが出来る。
そして、この備前車塚古墳が前方後方墳であることから、先にも述べた通り北山古墳が前方後円墳では無く実は前方後方墳であった可能性も秘めているのである。
なお、北山古墳の副葬品は現在その全てが所在不明となっている。
北山古墳の出土品
不明である。
北山古墳の陪冢
北山古墳の陪冢の有無についても不明である。
北山古墳の沿革
北山古墳については、既に消滅してしまっていることもあって、ほとんど語られることも無い。
北山古墳から発見された「三角縁四神四獣鏡」は、中国で製造された銅鏡と見られている。
このことから北山古墳に葬られた人物は、ヤマト王権(大和朝廷)から中国製銅鏡を授与される立場にあった人物であったと推測される。
即ち、ヤマト王権(大和朝廷)がわざわざ中国製銅鏡を与える人物となると、やはり乙訓地方の首長、もしくは首長級の人物であった可能性が高いように思われる。
つまり、この北山古墳は乙訓地方の首長墓であろうと考えられる。
そして、この北山古墳の踏査に当たった考古学の権威である梅原末治博士の次の言葉が、破壊されて永遠に失われた北山古墳の存在意義が如何に大きなものであったのかを物語っている。
『被葬者ノ位置ノマタ高カリシハ疑ヲ容レズ。我應神仁德朝以前ニ此ノ地方ニカクノ如キ墳壟ヲ營メル豪族ノ存セルヲ示ス點ニ於テ尊重スベキ遺蹟ノ一タルヲ失ハザルナリ』
(『京都府史蹟勝地調査会報告 第二冊』国立国会図書館デジタルコレクション)
梅原博士達の踏査が実施されたのは、北山古墳が破壊された25年後のことであった。
(太平洋戦争後に米軍が撮影した北山古墳跡推定地)
この太平洋戦争後に米軍が撮影した北山古墳跡推定地を見ても周囲は鬱蒼とした竹藪(戦時中、男性達は徴兵や徴用に駆り出され竹藪の手入れが出来なかった影響もあると思われる)であり、北山古墳以外にも他の小規模な古墳や塚の存在があった可能性を窺わせる。
乙訓地方におけるタケノコの栽培は、まさに「農業」であり、土入れや余計な竹の伐採、及び肥料やり等、年間を通して竹藪の土地そのものに手を入れる行為が実施されているため、古墳時代からの表土がそのまま残されていることが少ないと思われるからである。
その後、笹部新太郎氏が、かつて北山古墳が存在していた地域を含む一帯の地に、桜を植樹し「桜の園(桜苗圃)」としている。このことは、水上勉氏の小説『櫻守』で広く知られている。
それらの桜の花は、まるで北山古墳を破壊されたことで寄る辺を失い彷徨う被葬者の魂への手向けのように美しく咲き誇ったと言われる。
しかし、その「桜の園」も高度経済成長期の名神高速道路建設用土砂採取のため向日丘陵南部が大きく削られた際に完全に破壊され尽くされてしまった。
(名神高速道路建設用土砂採取で破壊された北山古墳跡推定地)
北山古墳は不幸にも二度破壊されたと言えるのかも知れない。
北山古墳と長岡京
長岡京の地理の中では、長岡宮と右京との境目、西一坊大路上に位置している。
北山古墳の年表
- 明治17(1884)年避病院建設のために墳丘を破壊削平。
- 大正8(1919)年京都府史蹟勝地調査会に拠る踏査が実施される。
北山古墳跡への行き方
公共交通機関
鉄道
阪急京都線「西向日駅」西口から徒歩15分。
阪急京都線「東向日駅」西口から徒歩20分。
JR京都線「向日町駅」から徒歩25分。
バス
阪急バス「向日市役所前」バス停から徒歩3分。
阪急バス「向日台団地前」バス停から徒歩3分。
向日市営コミュニティバスぐるっとむこう 南ルート・北ルート「向日市役所前」バス停から徒歩3分。